文学と科学と宗教

適当に物事を枠に当てはめてみた。
あまり意味のある文章ではないけれども、せっかく色々考えたものを残さないのももったいないのでメモ。
あふれ出る妄想・・・後で赤面だな。



一つの物事に対して、文学は多様性を求める。
科学は画一性を求める。
文学は、様々な文言を用いて、表現し、その情景を色鮮やかに伝える。
科学は、誰でも等しく観察可能で再現可能な単一の結果を求め、確定する。

この理屈でいけば、英語が科学の分野で標準語として利用されているのは、当然。言語にによる表現の幅は小さく抑えられている。
欧米人のボディランゲージが大きいのは、言葉だけで伝えられない機微を伝える為じゃないか?

日本語というのは、その形からして文学的な気がする。
1つの物事に対して散文的で多様的。
しかも、様々な言語を吸収しその多様性をさらに広げている。
例えば、英語表現をする事で知性(インテリジェンスとか凄そうじゃない?)を表現するとか。
この使い方は、英単語を日本語に取り込んでしまっている気がする。


日本人は科学に向かないんじゃないだろうか?
正確には、日本語。
逆に、日本人が作り出す文学は素晴らしいものが多いのでは?
この理屈からすれば、海外の人間が評価を下す文学賞ノーベル文学賞とか)はナンセンス。
日本語以外の言葉で(例えば、科学向きときさいした英語で)表現されたものを評価して何の意味があるのか?
んじゃ、日本お得意の技術者(職人)は科学的?それとも文学的?
自分のフィーリングは、文学的。
何故か・・・何だか言葉が浮かばないが、多分文学的。
簡単な話、この理屈が壊れちゃうからってのもあるけど。
それだけでは無い情緒溢れるものがそこにある気がする。
技術伝承が感覚の伝達として行われているんじゃないかな?とか。


話し変わって。
宗教が、科学と衝突するのは、この多様性と画一性のおいしい所取りをしてしまっている所が原因じゃないか?
逆に、文学(芸術含む)と相性が良いのは、矛盾やらも全て何でもかんでも、多様性で表現できてしまうからじゃないかな。
宗教が基本とする教本や教えは非常に、散文的で多様性に長けている。
科学が発達したことで、教本の解釈が変わったりする柔軟性は、科学的でない。
こういった所で宗教は文学的。

所が、宗教はその教えに対して画一的に、従うことを求める。
教えとは唯一絶対の基盤。
これが揺らげば、その宗教を信じることで将来に発生する救いを享受出来る可能性が低くなってしまう。
ここに柔軟性があっては、宗教が破綻する。
だからこそ、画一的だからこそ、別の教えと反発するし、戦争も発生する。


文学的な教えに対して科学的に従う事を求める。
こいつはダブルスタンダードで、矛盾を大量に孕んでいる。
それでも信じなければやっていけない位、人生は面倒臭い。
まったくもって。。。